数学の入試問題では
工夫を凝らして計算していけば、比較的すんなりと
解答が2010(その年の西暦)などになるように作られたものが
出題されることがあります。
受験生は、答えが出た瞬間に出題者の意図がわかり、
「そういうことね!きれいな答えだ!多分あってるぞ」
という確信をもって、にんまりしながら、次に進むことができます。
一方で受験生にガリガリガリガリ複雑な計算をさせ、
2252分の113なんていう、とんでもない答えを出させる問題も
作られます。
受験生は、合っているかどうか、なかなか確信が持てません。
「こんなにごちゃごちゃした答えが出てきたぞ・・・
どっかに間違いがあるんじゃないか・・・
もうちょっときれいな答えになるんじゃないかなあ・・・」
などと不安を抱えたまま、自分の計算のプロセスに誤りがないことを
確かめて次に進むしかありません。
受験生としては、前者の問題の方が、気持ちよく楽しく前に進めて
気が楽です。(私も前者の問題の方が好きです。)
後者の問題は意地が悪いですよね。
しかしながら、後者は後者で、すごく重要なメッセージが込められている
ような気がするのです。
かつて、科学者の間では、太陽を回る天体の軌道はきれいな「円」を描くはずだ、
と考えられていました。
そのころは宗教(キリスト教)が科学に大きな影響を及ぼしていましたから
「神がお創りになられたこの宇宙は、きっと美しい形をしているはずだ。
だから天体の軌道は、完璧なる美しい円でなければならない」
と思われていたんです。
しかし、実際の軌道は「だ円」でした。少しつぶれた円だったのです。
また、地球の形も、美しい球形だと思われていましたが、
正確に計測すると、上のほうが少しつぶれた「洋なし型」をしていること
が分かってきました。
この宇宙は、人間が想像するような、単純に納得できる「美しい形」
ではない場合もある、ということが分かったのです。
ですから、学問を志す者は、宇宙が用意している解答が
一見して「美しくない」可能性も、腹に据えておかなければならない。
シンプルでない答えが出てきたとしても、
自分の思考や実験のプロセスに誤りがないならば、
その答えを勇気を持って提示しなければならない。
前述した複雑に見える答えを出させる入試問題は、
ハイレベルな計算力と共に、このような学問を志す者の
心構えを問うているのではないかと思うのです。
一方で、数学にしろ、物理にしろ、自然科学者たちは
この森羅万象を司る法則を、なるべくかんたんな美しい式で
記述したい、という理想を持って研究を重ねたのも事実です。
例えば、ニュートンが作った古典力学の体系は、
F=maという、とてもシンプルで美しい式を出発点にして
物体の運動を記述できることを世に示しました。
先ほど述べたことと矛盾するようですが、このニュートン力学は
「宇宙はきっと、シンプルで美しい式で表されるはずだ」
という強い信念がなければ、成し得なかった業績ではなかったかと
思うのです。明確な意図がなければ、ひとつの体系を築き上げる
ことはできないのです。
以上を総じてみると、
“科学を志す者は、この宇宙が「美しい答え」と「美しくない答え」
の両方を、我々の眼前に突きつけてくることを覚悟しなければならい。
そして、「強い信念」と「勝手な思い込み」の間でもがきながら、
「美しい答え」と「美しくない答え」の奥にあるものを、さらに深く
探究していくたくましさを持たなければならない”
ということが言えると思うのです。
冒頭で述べた、対極にあるふたつの問題は、そのようなことを
語りかけているのではないかと、私は思うのです。