毎朝7時20分に、窓の外から、声が聞こえます。
「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃーい」
大きな声で、何度も遠くへ呼びかけています。
「いってらっしゃーい」
「車に気をつけるんだよー」
「いってらっしゃーい」
女の人の声です。学校へ行く子どもを送り出している
若いお母さんでしょうか。
人目をはばかることなく、こんなにも大きな、愛情に溢れた声で
「いってらっしゃーい」と子どもを送り出す方を私は知りません。
私の母も、この声の主がどんな方なのか、とても気になっていたようで
ある日、その方の姿を見るべく、その時刻に合わせて
家の外へ出て、それとなく花壇の水やりをしていたんです。
そして母は、その「いってらっしゃい」の声の主が、
どんな方であったか、その真実を知ったのです。
その方は、私の家の近くに住んでいる、中学生の女の子でした。
その子の小学生の妹さんを送り出すときに
「いってらっしゃーい」と大きな声をかけていていたんです。
中学校と、小学校は、反対の方向にあります。
二人は一緒に家を出て、反対の道を行きます。
中学校へ向かうお姉さんが、何度も何度も後ろを振り向きながら、
遠くへ消えていく妹の後ろ姿に届くように、
「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃーい」
「車に気をつけるんだよー」
と、大きな声で呼びかけているのでした。
妹の後ろ姿が見えなくなるまで。
母も、まさか中学生の女の子の声とは思っていなかったらしく
驚くと同時に、その子の姿にとても感動したんだそうです。
私もその話を聞いて、その子に関して様々な想像が
頭の中を駆け巡りました。
その子は、妹さんの母親代わりをしているのかもしれません。
自分も学校に行かねばならない身でありながら、
その子は自分のことはさて置いて、
妹を送り出すことだけを思って、一心に呼びかけるのです。
あんなにも大きく、清く済んだ声で
妹の姿が見えなくなるまで呼びかけ続ける、
その子の心はどのようにして育まれたのだろうかと
その軌跡と奇跡を思います。
今朝も家の前の通りには、その子の清らかな声がこだましていました。
私は夢うつつの中で、その声を聞きました。
「いってらっしゃーい」
彼女の声の残響が消えると、自動車や室外機といった町の音が
際立って、私の胸に切なく迫ります。
ほどなくして、また彼女の声がこだまします。
「いってらっしゃーい」
「車に気をつけるんだよー」
「いってらっしゃーい」
声はどんどんと遠くへ向けられます。
まるで今生の別れであるかのような、
ひとりの人間を心から思う、慈愛に満ちた別れの言葉。
私は、寝ている間にそのまま天国へ来てしまったのでは
ないかと、温かで切ない錯覚を覚えるのです。