昨日、日記にコメントを下さった方が「許す」ということに
触れられていて、ふとある疑問が浮かびました。
英語の「forgive」は、日本語では「許す」という意味ですが、
ではどうして、「for」~のために、と「give」~を与えるが
組み合わさって、「forgive」になったのだろうと。
そこで語源を調べてみました。
どうやら「forgive」はラテン語の「Perdonare」(許す)から
翻訳借用して作られた言葉だと考えられているようです。
「Perdonare」の接頭辞「per」は「完全に」という意味で
「donare」は「与える」という意味だそうです。
つまり「完全に与える」という意味なんです。
(※英語の「pardon」も「許す」ですよね。
こちらは「Perdonare」から来ていることが分かりやすいですね。)
英語の「forgive」の接頭辞「for」も「~のために」という
意味ではなく、「完全に」という意味なのだそうです。
許す = 完全に与える
では、いったい何を「完全に与える」というのでしょうか。
ここからは、ひとつの「仮説」です。
古代でも、現代でも、人が生きていくためには様々なものを必要とします。
水、食糧、光、空気、衣服、友人、家族、愛情…
「生きることが許される」ということは、これらのものが「与えられる」
ということです。
「自分がこの世に生きることを許されている」と感じるのは、
自分が生きていくために必要なものが過不足なく、
完全に与えられていると感じるときです。
また「生きていくために必要なもの」は人によって様々です。
衣食住に関することだけではなく、
ある人にとっては海外で学びたいという思いだったり、
またある人にとっては、大好きなアニメに熱中する時間だったり、
人にとっての「生きる」は、自分が自分でいられるように「生きる」
ということでもあります。
様々な負の事象が目の前に立ち現れ、これら生きるのに必要なものが
次々に奪われていったら、人は「自分はこの世に生きることを許されて
いないのではないか」と思い、自暴自棄になってしまうことでしょう。
罪を許されるというのは、その人が生きることを許されるということです。
遊ぶことを許されるというのも、その人が生き生きとすることを許される
ということです。
私は「許されること」は、自分が「生かされること」とセットの概念だと思うのです。
能動形で言えば、「許すこと」は相手を「生かすこと」とセットなのです。
であるとすると、
許す = (相手を生かすのに必要なものを)完全に与える。
となりますが、こんなことは逆立ちしたって人間にはできません。
これは神様だけができる御業です。
ですから、人間にできることと言ったら
許す = (相手を生かしたいという自分の心を)完全に与える。
ということになると思うのです。
「完全に」与えられるかどうか、これも極めて難しいことではありますが、
人間が神様から与えられたひとつの課題であるような気がします。