毎日楽しみに観ていた、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」が土曜日で最終回を迎えた。
生まれて初めて、最初から最後まで見通した朝ドラであった。
今年3月末頃、本作の予告を見た私は、「これは面白そうだなあ」という直感がし、スタートの日を心待ちにしていた。
予告編を見る度に、ワクワクは大きくなっていった。
そして、実際、このドラマは期待を裏切ることのない、まれにみる傑作であった。
なぜ、このドラマは傑作に成り得たのか。
それは、役者・スタッフを含めたすべての作り手が、「同じひとつの方向を見て」製作を進めることができたからであろう。
彼らには、素晴らしい原作があった。
そしてその原作は、フィクションではない。
戦争で左腕をなくし、極貧の生活の中、片腕で漫画を描き続け、40を過ぎてやっと大成した不屈の鬼才「水木しげる」と、彼を陰で支えつづけた女房の「本当にあった」物語である。
しかも、その夫妻は現在も元気で暮らしていらっしゃる。
原作そのものが「生きて」そこに存在しているのである。
役者も脚本家も監督も、すべてのスタッフは、「生きた」原作を心に携えて、製作を進めることができたのである。
役者・スタッフサイドが描くべき世界の共通認識をしっかりと持つことができると、それぞれの考える「良い仕事」が反発したり、脇道にそれることなく、良い相乗効果を生むものである。
このドラマは一貫して、「目には見えないけれども、自分達を見守り、支えてくれている存在」への感謝をテーマとしていた。
陰で支えてくれた女房布美江や、家族や、先祖や、友人や、隣人や、名も知らぬ多数の読者達の「目に見えぬ大きな働き」があって、水木しげるの漫画は日の目を見ることができた。
「妖怪」という「目に見えない存在」と上手くオーバーラップさせながら、そのテーマを描ききったことに、このドラマの完成度の高さがある。
役者・スタッフが生きた原作を共通基盤に、明確なひとつのテーマを見つめることができたからこそ、これだけ完成度の高いものができたのであろう。
そして、ドラマの作り手もまた「目に見えないが確かにいて」ドラマを支えた存在である。
また、我々「ゲゲゲの女房」を楽しみにしていた何千万という視聴者もまた、作り手からすれば「目に見えないが確かにいて」ドラマを支えた存在である。
そのようなことを考えながら、主題歌の「ありがとう」を聞いていると、それが製作者から視聴者への感謝の言葉であるような気がして、泣けてしまう。
あなた達も「ゲゲゲの女房」を支えてくれたんですよ、と。
ドラマがドラマという枠を超え、視聴者の視聴行為そのものも取り込んで、テーマを完結させている点には、恐れ入る。
心憎い多重構造である。
妖怪、登場人物、スタッフ、そして視聴者までもが「目に見えぬ、縁の下の力持ち」として描かれている。
良い朝ドラは、視聴者の生活のリズムまで構築してしまう。
このドラマのおかげで、超夜型の生活である私も、この半年起きるのが大変ではなかったし、生活にメリハリがあった。
朝ドラというものは、物語であると同時に、視聴者の「日常」の一部であるということを、製作者は良く理解していたのだろう。
だから、上記のような多重構造を成し得たのだと思う。
この半年、私の日常に楽しみを与えてくれたことに、心から感謝したい。
ゲゲゲの女房や水木作品に関しては、書きたいことがまだまだいっぱいあるので、またいつか書きたいと思っている。
ああ、来週の月曜から、寂しくなるなあ・・・。