ある生徒からこんなメールが届いたとします。
「先生、今度の数学のテスト98点でした」
また、ある生徒からこんなメールが届いたとします。
「先生、今度の数学のテスト48点でした」
一体どちらが素晴らしい報告なのでしょうか。
やはり満点に近い98点取ったという報告の方でしょうか。
しかし、この文面だけでは、
どちらが素晴らしい報告なのかはまったく分からないのです。
なぜなら、98点取った生徒のほうは
毎回100点を取る実力があるはずなのに、
3年間、毎回97~99点で、
最後のテストでも細心の注意を払ったはずなのに、
100点を逃してしまった・・・。
自分は何てダメな奴なんだ・・・。
という絶望的な気持ちでメールを送ったのかもしれません。
一方48点を取った生徒は、
3年間、数学はほとんど0~10点で、
ちんぷんかんぷんだったのに、この2ヶ月一生懸命頑張ったら
なんと48点も取れました!嬉しいっ!!って気持ちで
メールを送ってくれたのかもしれません。
98点取った、48点取った、という客観的「事実」だけでは
ほとんど何も分からないのです。
大切なのは、その事実と共にある、その人の「感情」だと思います。
誰が何て言ったって、98点はその人にとって絶望的な不名誉なのです。
誰が何て言ったって、48点はその人にとって大きな勲章なのです。
できるならば、私はそれを共に悲しみたいし、喜びたい。
この世でそれが可能なのは、おそらく、ご両親か、先生しかいないでしょうから。
「見守る」ことの中には、「分かち合う」ことも含まれていると思います。
感情を知りたい、分かち合いたいという気持ちは
私達が大切な人のことを想う時、顕著に現れるものです。
「○○さんは今日、○○歳の誕生日だ」
その事実は、ほんとはあまり重要ではないのです。
その人が、誕生日を迎えるにあたって、どんな気持ちでいるのか、
それが大切なことなのだと私は思うのです。
わくわくしているのか、どんよりしているのか、
希望に満ちているのか、暗い気持ちで沈んでいるのか、
その人の、心の流れを知りたいと思う。
その心の流れに寄り添った上で、お祝いしてあげたいと思う。
大切な人のことを思うとき、私たちは簡単には済ませられなくなります。
先入観だけで、答えを出すことに不安を覚えます。
だって、時に48点は98点より輝かしいこともあるのですから。
ある人が今日何をして生たかよりも、
ある人が今日どんな気持ちで生きれたかが、いとおしいのだと思います。