2011年10月8日は、私にとって、
生涯忘れられない日になりました。
もし彼に出会っていなければ、
自分の人生は大きく変わっていただろうと言える程の、
大切な親友の結婚式がありました。
私は、挙式、披露宴のビデオ撮影や、
二次会の幹事などを任されていました。
親友が結婚に至るまでの物語と、
その結婚式を創るお手伝いは、
私に、自分の人生や結婚について
深く考える時をもたらしてくれました。
私だけでなく、親しい人の結婚式に参加することが
きっかけとなって、自分の人生を見つめる機会を得る
人は多いのではないかと思います。
未婚の方であれば、私のように、自分のこれからの
人生や結婚について考えるでしょうし、
既婚の方であれば、自分が結婚した日のこと、
そしてこれまでの結婚生活を、
様々な感情を滲ませながら、思い返すことでしょう。
「結婚式」は、新郎と新婦だけでなく、参列する人の
人生にとっても、意義深いものなのだということが、
ようやくこの年になって分かってきました。
喜びを分かちあうことで、
人生を見つめる機会を持つのが婚礼ならば、
哀しみを分かち合うことで
人生を見つめる機会を持つのが葬礼だと思います。
実は10月8日は、私にとって、もうひとつ
大きな出来事がありました。
以前「ふたつの闘い方」という題の日記でも触れましたが、
13年という長い間、私の家族を癒してくれた愛犬が、
天国へ旅立ちました。
1週間程前に余命2日と宣告されたものの、
奇跡的に持ち直し、4日も長く生きてくれました。
家族の心が整うのを待っていてくれたんでしょう。
本当に最後まで偉い子でした。
私が、授業と翌日の結婚式の準備を終えて、
ブリリアンスから家に帰ると、
リビングには、いつもと同じように玄関の方に顔を向けて、
私の帰りを待っていたかのような愛犬の姿がありました。
愛犬の眼が開いていたので、最初は生きていると思ったんです。
しかし、愛犬を取り囲んでいる家族の様子で、はっと悟りました。
10月7日の深夜、8日に日付が変わって間もなく
息を引き取ったことを、後で家族から聞きました。
結婚式の翌日、9日に、私たち家族は、
知覧にある祖父母の家の畑に、愛犬を埋葬しに行きました。
祖父母が亡くなった後、家には誰も住んでいないのですが、
畑は、父が週末に帰って育てている野菜や草花で賑わっています。
コスモスが咲き誇っていました。
愛犬の眠るお墓にも花を植えました。
家に帰ってみると、リビングがとてもとても広く感じられました。
いるはずの存在が、もう今日は、この世にはいないのです。
愛犬が、自分の生活の一部であったということに、
改めて気づかされました。
ふとした時に、愛犬の足音や鳴き声、動く姿が見える気がしました。
私は、「生活」という言葉がとても好きです。
共に眠り、共に眼を覚まし、
同じ釜で炊いたご飯で食事をし、
同じ竿に洗濯物を干し、
ひとつの袋でゴミを出し、
同じ湯につかり、
共に語らい、共に泣き、共に笑い、
また、共に眠る。
愛する人や、愛する家族と、
共に生活ができる、共に毎日を送れるということは
何ものにも代えがたい幸せだと私は思います。
そして、その時には限りがあります。
家族のような親友が人生の門出を迎え、
家族の一員だった愛犬が旅立って行った日。
愛する人と共に生きていくことの幸せを、
深く教えてもらった日でした。