私は、教室の前に置いた小さなホワイトボードに、道行く方々に向けて、日替わりのメッセージを書いています。
これには幾つか動機があるのですが、今日はその動機のひとつを書きたいと思います。
1998年の4月から数ヶ月間、私は杜の都、宮城県仙台市の若林区という町に住んでいました。
というのも、実は私は数カ月間だけ、東北大学の理学部に在籍していたんです。
私は現役時、国立大学の前期試験で、一番行きたかった京都大学の理学部に落ちてしまい、後期試験で、難易度は京大と同じくらいだったのですが、センター試験の結果が良かったことも手伝って、東北大学の理学部に合格しました。
(京大の理学部は、センター試験を足切りに使うだけで、合否にはまったく関係がなく、二次試験一本勝負なんですね。)
東北大学を第2志望に選んだのは、宇宙物理学が学べること、それから、私の好きな宮沢賢治の故郷、岩手県に近いということがありました。
それと当時は、浪人を覚悟で、後期も京都大にチャレンジしようという勇気がなかったんです。
後期試験の合格発表から、気持ちを整理する間もなく、私は宮城県仙台市に移り住み、東北大学での学生生活が始まりました。
しかし、通い始めてからすぐに、私は強烈な孤独を感じるようになりました。
というのも、同じ地平で話ができる友人がなかなか見つからないのです。
東北大というのは、東北地方の中で一番の大学だし、歴史上、日本で3番目に創設された帝国大学です。
鶴丸高校時代よりも、レベルの高い話ができる友人達にきっと出会えるはずだという期待を私は持っていました。
しかし、同級生と話をする度に、自分が思い描いていたような会話のできる人はどこにもいないように思えたんですね。
今思えば、私の心が焦りすぎていたせいだったと思います。
当時の私は、ものすごい孤独感と、京大への未練を感じるようになっていきました。
気持ちが落ち込み始めた私は、授業に出席する回数が減り、代わりに、上級生と会話ができた演劇部にたまに顔を出すか(正式な部員ではありませんでしたが…)、仙台の街をひとりでプラプラするようになりました。
その数カ月間というのは、私の人生の中で、初めてゆっくり自分と向き合える時間だったように思います。
高校時代までは勉強や何やらで、慌ただしく毎日が過ぎていき、己を顧みる間はありませんでした。
また、鹿児島から遠く離れて初めて、家族の問題で精神を労働させる必要もなく、自分のことだけに意識を向けることが許されるようになりました。
そうして、自分と対話する時間が増えて痛感したのは、「自分は何てからっぽな人間なんだろう」ということでした。
自分はこういう者ですと、堂々と人に説明できるような何かをまったく持っていない。
自分の中に、誇りとできる何か、自分自身を支えうる何かを、まったく見つけられない。
自分は「からっぽのひょうたん」で、その「ひょうたん」をふってみると、小さなかけらが、かすかにカラカラと乾いた音を立てるだけでした。
18歳のひょうたん人間だった私は、カラカラとかすかな音を鳴らしながら、仙台の街を毎日ぷらぷら歩いていました。
来たことのない通りを歩いていると、左手に一軒の文房具屋さんが出てきました。
すると、私の目に、店のガラス戸に張られた、筆で書かれた勢いのよい文字の一群が飛びこんできました。
「子どもは宇宙からの手紙です」
ただそれだけです。
なぜ、そこにそんな言葉が張られているのか一切の説明はありません。
その言葉だけが、白い紙に書かれて、店のガラス戸に貼られています。
私の足は完全に止まってしまいました。
児童文学の世界に昔から興味があった私は、「子ども」という存在に思いを巡らす時間をよく取っていました。
また、宇宙というものを、数学的にというよりは、哲学的に考えてしまうタイプであった私にとって、この言葉は心の琴線に強く触れるものでした。
「子どもは、宇宙からの手紙です」
その言葉は、私にとっても、宇宙からの手紙でした。
強烈な出会い過ぎて、私は、その時、そのお店に入ることができませんでした。
その言葉に自分を丸ごと持っていかれた感じでした。
私はただ、その言葉がもたらすイメージに身を委ね、想像を巡らせながら、再び歩き始めました。
思えば、その言葉との出会いが、私が自分の核にあるものを再確認し始めるきっかけであったかもしれません。
京都大に再チャレンジしようと思い始めたのも、この時からだったかもしれません。
それから私は、散歩をするときはその店の前をわざわざ通るようになりました。
しばらくして貼り紙は変わり、新しい言葉になったのですが、残念ながら前の言葉ほどのインパクトはありませんでした。
またしばらくして貼り紙は変わったのですが、その言葉も、拍子抜けするようなつぶやきだったように記憶しています。
それらの言葉は、私にはフィットしませんでしたが、他のどなたかの心にフィットしていたかもしれません。
私の心にはまだ「子どもは宇宙からの手紙です」の余韻が残っていて、その後も、私は様々な形で自分と対話する日々を続けていきました。
そしてついに、私はその店の戸を開けることなく、その言葉を誰が何の目的で書いているのかも知ることなく、京大に再チャレンジするために、家族の理解を得て、鹿児島に戻りました。
それから、数年。
京大に合格した私は、3回生になろうとしていました。
京大では、多くの深く語り合える友人、とても敵わないなと思えるような知的で尊敬できる先輩方と出会うことができ、充実した学生生活を送ることができました。
3回生になる直前の冬、私は再度原点に立ち戻りたい、また宮沢賢治に会いに行きたいという気持ちから、東北への一人旅を計画しました。
(この旅の詳細は、また機会がある時に書きたいと思っています)
数年ぶりに訪れた杜の都、仙台。
私は、東北大学のキャンパス、演劇部の部室、大家さんとも交流があった当時の下宿先、それから、あの言葉が貼ってあった文房具屋へと足を運びました。
その日、貼り紙は貼ってありませんでした。
私は、初めて店の戸を開けました。
小さいお店の奥から、年配の女性が出ていらっしゃいました。
私は、数年前、学生として仙台に住んでいたこと、そして、ガラス戸に貼ってあった言葉との出会いについてお話し、どなたがどんな目的で書かれたものだったのかを、その方にお尋ねしました。
女性は、あははと笑いながら、
「ああ、あれは主人が、ただのきまぐれで書いていたものなんですよ」
とおっしゃいました。
私は、拍子抜けしてしまいました。
私にとっては大変大きな出会いだっただけに、「感慨深そうにそのエピソードを語り始める奥さん」を期待していたところがあったんだと思います。
私はなんだかそれ以上のことは聞けなくなってしまって、そのご主人にお会いすることもなく(ご存命なのかどうかをちゃんと確認することもなく)、「ああそうでしたか、ありがとうございました」と言って、お店を出ました。
私は、その後、重要な事実に気づきました。
人は、どこの誰だか分からない人が、気まぐれにつぶやいたような言葉でも、それを自分に向けて送られたメッセージのように受け止め、大きなインスピレーションや生きるエネルギーを得ることがあるのだ、という事実を。
(言葉を書いたご本人とお話ししたわけではないので、本当は「気まぐれ」以上の気持ちで、それらの言葉をお書きになっていたのかもしれませんが。)
私が、ブリリアンスを開校して以来、小さなホワイトボードに日替わりの、気まぐれなメッセージを書いているのは、お会いしたわけでもないのに私の人生に良い影響を与えてくれた、仙台の文房具屋さんのご主人に、オマージュを捧げているというのが、ひとつの大きな理由です。
時折、私も、町の方から「いつも楽しみに読んでいます」と声を掛けて頂けることがあります。
それは、私にとって、この上もなく、嬉しいことです。
あれから十数年、インターネットの世界には、様々なつぶやきが溢れるようになりました。
誰かが気まぐれにつぶやいたひと言が、誰かを大きく傷つけてしまうこともありますが、誰かにスプーン一杯の安らぎや、インスピレーションや、あるいは人生を変えるきっかけすら、もたらしてくれることもあります。
「子どもは宇宙からの手紙です」
この言葉は深く、いまだに私の心の底に残り続け、生徒達と接するときの大切な下支えになってくれています。
宇宙からの手紙は未知の言葉で書かれています。
ですから読みとるのは難しいのだけれど、
そこには確かに、誰かが誰かに向けて贈ったメッセージが込められているはずなのです。