最近、私は過去の回想日記ばかり書いています。
「今」や「これからの展望」を書かれている他の方々の日記を読んでいて、自分の日記のベクトルが過去に向いていることを改めて自覚しました。
なぜ、「今」の日記をあまり書かないかというと、それには理由があります。
その理由のひとつは、生徒さんの成長を見守るという仕事をしている私が、今日行った授業について(プライバシーは最大限に配慮するにしても)言及するのは、何らかの形でその生徒さんの成長に影響を及ぼしてしまうのではないか、という危惧があるからです。
本当は今日の授業で感じたこと、気づいたこと、生徒さんと分かち合ったことなど、これからどういう風に進化していくか分からない「今この瞬間」の経験や発想を、新鮮なうちに書いておきたいという気持ちもあります。
しかし、現在進行形の、大きな可能性を秘めたその事象について、今、何らかの言及することは、その事象の可能性を、ある枠の中に閉じ込めてしまうことにつながるのではないか。
そんな風に思ってしまうので、私が生徒さんとの出来事を記す際には、自ずと発展途上の事象ではなく、ある程度、形が固まってきた事象に限られてくるようなのです。
(というわけで、必然的に過去の出来事や、かつての教え子とのエピソードが多くなります。)
とはいえ、最近の自分は特に「過去」のことばかり書いているよなあ、どうしてなんだろう、と自分でも少々首をかしげておりました。
そんな矢先、先ごろ亡くなられたスティーブ・ジョブズの言葉を、内田樹先生のブログで読んで、なぜ、今、自分が「過去」を回想しているのかが、腑に落ちたんです。
ああ、今自分は、時を経てやっと「点を結ぶ」ことができるようになったんだ、ということが分かって、ほっとしました。
以下、内田樹先生のブログからの引用です。
少々長いですが、「学ぶ」ということの本質をとらえた奥深い内容だと思います。
よろしければ、是非、御一読下さいませ。
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先ごろ亡くなったスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学の卒業式での有名なスピーチがあります。
僕が言いたかったことを彼は全然違う言葉で言っていて、僕は深い共感を覚えました。
彼がその中でこう言っていました。
半生を振り返って得た結論が、一番大事なことは、「あなたの心と直感に従う勇気を持つことだ」(the courage to follow your heart and intuition)と。
どうしてかというと、ここが素晴らしいんですが、「あなたの心と直感は、あなたが本当は何になりたいかを知っているからである(they somehow know what you truely want to become)」。
これを僕は本当に素晴らしい言葉だと思いました。
僕の言う二番目の学力というのはこれのことです。「勇気」です。
こういうことを勉強すると、これこれこういういいことがある、この知識や技能や資格や免状はこういうふうにあなたの利益を増大させる、というような情報に耳を貸すな、とジョブズは言っているんです。
だって、まわりの人が「これを勉強しろ。これを勉強すると得をするぞ」と言い立てている通りに勉強するなら、勇気なんか要りませんから。
勇気が要るのは、「そんなことをしてなんの役に立つんだ」とまわりが責め立てて来るからです。
それに対して本人は有効な反論ができない。
でも、これがやりたい。これを学びたい。この先生についてゆきたい。そう切実に思う。
だから、それを周囲の反対や無理解に抗して実行するためには勇気が要る。
自分の心の声と直感を信じる勇気が要る。
ジョブズは大学に入って半年でドロップアウトしてしまいます。
授業に興味が持てなくて。
ドロップアウトした後は自分が興味を持てる授業だけ聴いた。
そのときにカリグラフィー、習字ですね、その授業を受けた。
さまざまな美しい書体について勉強した。その勉強が何の役に立つのか、授業を受けている時にはわからなかった。
でも、10年後にわかった。
最初のアップルのコンピュータを設計するときに、ジョブズは「パーソナルコンピュータは複数の美しいフォント(書体)を持つマシーンでなければならない、字間は自在に変化しなければならない」と思ったからです。
タイポグラフィーの美しさというコンセプトをジョブズははじめてパソコンに持ち込んだのです。
カリグラフィの授業を受けたという経験がなければ、僕たちはたぶん今でも複数の「フォント」から好きな字体を選んで字を書くということはなかっただろうとジョブズは言ってました。
ドロップアウトした後、どうしてカリグラフィーを履修したのか。
それは彼が「自分の心と直感に従った」からです。そのときには、いったい将来自分のがどんな職業に就くことになり、今習っているこのことがどんなかたちで実を結ぶか、予測できなかった。
でも、10年後に振り返ってみたら、そこにははっきりとして線が結ばれていた。
ジョブズはこれを「点を結ぶ」(connection the dots)という言い方で表現しています。
僕たちは「何となく」あることがしたくなり、あることを避けたく思う。
その理由をそのときは言えない。
でも、何年か何十年か経って振り返ると、それらの選択には必然性があることがわかる。
それが「点」なんです。
自分がこれからどういう点を結んで線を作ることになるのか、事前には言えない。
「点を結ぶ」ことができるのは、後から、回顧的に自分の人生を振り返ったときだけなんです。
教育はまさにそのような行程です。
教育を受ける前には、自分がどうしてそれを勉強するのかその理由はわからない。
だから、教育を受けるに先立って、「これを勉強したら、どんないいことがあるんですか?」という理由の開示を求めるのは間違っている。
ほんとうに必要な勉強は、「それをやらなければならないような気がするが、どうしてそんな気がするのかは説明できない」というかたちでなされるものだからです。
学ぶに先立って学ぶことの意味や有用性について「教えろ」というのは間違っているんです。
「学び」というのは、なんだか分からないけど、この人についていったら「自分がほんとうにやりたいこと」に行き当たりそうな気がするという直感に従うというかたちでしか始まらない。
-中略-
学びの始点においては自分が何をしたいのか、何になりたいのかはわからない。
学んだあとに、事後的・回顧的にしか自分がしたことの意味は分からない。それが成長するということなんです。
成長する前に「僕はこれこれこういうプロセスを踏んで、これだけ成長しようと思います」という子供がいたら、その子には成長するチャンスがない。
というのは、「成長する」ということは、それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行動を説明することができるようになるということだからです。
だから、あらかじめ、「僕はこんなふうに成長する予定です」というようなことは言えるはずがない。
学びというのはつねにそういうふうに、未来に向けて身を投じる勇気を要する営みなんです。
教育の効果というのは事後的にしか分からない。
ジョブズにしても嘉納治五郎にしても、自分がある時点で受けた教育の意味がずっと後になるまでわからなかった。
たぶん、僕たちは死ぬ間際になるまで自分の受けた教育の価値はほんとうは分からない。
教育の意味は受けたその時点で開示されるわけじゃない。
その時点ではわからない。教育を受けた結果、自分自身が現に成長を遂げたことによって、受けた教育の意味がわかる。
それを語れる語彙を持ったこと、その価値を考量できる度量衡を手に入れたことこそが教育の贈り物だからです。