前篇に引き続き、カーネーション考・後篇です。
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このドラマのもうひとつ特筆すべきところは、きれいごとではない現実を、当たり前のように物語に織り込んでいるところである。
例えば、主人公・糸子の夫・勝が、出征するのと同時に、浮気をしていたことがばれるというエピソードがあった。
糸子は、夫の浮気を知ってから、非常に複雑な心境となる。
戦争に出て行った夫の身を案じる思いと、陰でこそこそ他の女と逢瀬を重ねていたことを許せないという思いがないまぜとなり、心に大きなしこりを作ってしまう。
普通の朝ドラであれば、純粋な夫婦の絆を保ったまま、夫は戦地へ赴き、妻は夫の身を案じて、表だって口にすることのできない「あなた早く帰ってきて」という言葉を心の内で唱えるのが常套であろう。
糸子は違う。
「どんな身体でもええから、帰ってこい。帰ってきたら、飯を食わせて、ゆっくり寝させて、元気にしちゃる。それから、こってりしぼったるさかい。覚悟しときや。」と、苦々しい顔をしながら、夫を思うのだ。
ここにも、一筋縄ではいかない、人間の感情の複雑さが表現されている。
強い憎しみが湧くのも、深い愛情があってのこと。
その人が自分にとって「かけがえのない」存在だからである。
どうでもいい相手には、憎しみも湧きようがない。
糸子は怒りながら、夫への思いの大きさに初めて気づいたかもしれない。
また、この言葉には、頭では許したいと思うのだが、身体からは許したくないという感情が湧きあがり、それらがせめぎ合っている様子がよく現れている。
このような相反する感情のせめぎ合いは、状況は違っても、誰しもが経験したことがあるのではないかと思う。(とくに、人が人を愛する時は、感情のせめぎ合いのオンパレードであろう。)
だから、視聴者は無意識のうちに自分を振り返って「身に覚えがある」と感じる。
すなわち「リアリティ」を感じるのだ。
それが、このカーネーションという作品の持つ強さのひとつである。
そしてさらに、現実の生生しさが、視聴者に迫ってくる。
結局、糸子と夫・勝は、その後永遠に言葉を交わすことはできなかった。
勝はお骨となって帰ってきたのだ。
糸子は心のしこりを抱えたまま、女手ひとつで三人の娘達と多くの従業員達の生活を支えていかねばならなくなった。
夫を許せないまま、夫を頼ることができないまま、過酷な戦後を生き延びてゆかねばならない。
きれいごとではない現実が重くのしかかる。
しかし、物語には、一筋の希望の光が差し込む。
しばらくして、戦地で勝と一緒だったという兵隊が、糸子の元を訪ねてきた。
そして、勝が一番大切にしていたものを預かっていたと言って、一枚の写真を糸子に手渡す。
それは、出征前に撮影した、勝と糸子、そして幼い娘達が一緒に写っている家族写真であった。
夫とはもはや対話することのできない糸子は、その家族写真と対話を始める。
そこから夫の思いを酌み取ろうとする。
そして、「許しちゃるわ」と言い、処分することができずにいた夫の浮気の証拠写真を火にくべるのだ。
いつか夫に買ってもらい、たんすの奥に押し込んでいた、赤いカーネーション柄のショールを羽織って。
ここに、私は、きれいごとではない現実を生き抜こうとする人間のたくましさを見る。
糸子はこの時点ではまだ、心の底から勝を許せていたわけではないと思う。
許せたのではなく、許さなければ、先に進めなかったのだ。
戦地からひらりと帰ってきた一枚の家族写真を「きっかけ」にして、自らの手で、自分の感情の澱を浄化し、心に区切りをつけること。
そうすることで、糸子は次の一歩を踏み出そうとしたのだ。
心のしこりは消えたわけではない。
前より少し小さくなった程度であろう。
しかし、人は、しこりが小さくなっているということに、安堵を覚える。
小さくなっているという感触が、いつか時が経てば、このしこりも消え去ってくれるかもしれないという希望をもたらしてくれる。
そうして、小さなしこりを抱えたままで、新しい一歩を踏み出していくのだ。
ここに、人間のたくましさと美しさがある。
カーネーションは、人生における「きれいごとではない、きれいごと」を描き続ける、稀有なドラマである。
きれいごとではない現実を、本心で生き抜こうとする人の歩んだ道は、荒れ果てたままではない。
その道には知らぬ間に、地に深い根を持つ美しい花が咲くのだと、そう思わせてくれる。