僕は人の後ろ姿が好きです。
別れ際、踵を返して歩み去る人の背中には、その人の夢や孤独や想念がぎゅっと詰まっている気がします。
その人がこれまで何を築きあげてきて、これから何を築こうとしているか、そのすべてが凝縮されているように思います。
だから、僕は人の後ろ姿に美しさを感じます。
僕の仕事は、人を見送る仕事だと思っています。
巣立っていくその生徒の背中に希望と勇気が満ちているならば、僕とその生徒が出会い、共に過ごした時間は正解だったのではないか、と思っています。
巣立ちゆく生徒の背中を見送る時こそ、これまで注いできた思いが美しい結晶となって返ってくる瞬間でもあるのだけれど、そのとき同時に、どうしようもないさびしさが湧き上がってきます。
巣立ちは喜ばしいことなのに、これまた、どうしようもなくさびしい。
進学や就職で、息子むすめを遠方へ送り出す、親御さんと似たような気持ちを、毎年、味わいます。
時には、年の途中で突然、「意義ある退室」という形で、生徒の巣立ちのさびしさを味わうこともあります。
時々、「見送る」という仕事の重さとせつなさに飲み込まれそうになります。
でも、葬礼もまたそうであるように、幸せな旅立ちというのは、否応なく皆「泣きながら笑顔」なんですよね。
僕は、人間が人生で最大の仕事を成すのは、その人がこの世から旅立つ時だと思っています。
葬礼というのは、去りゆく故人の後ろ姿の美しさを、参列者が心の奥に結晶化させる機会です。
結晶化された故人の人柄や生き方や生き様が、参列者の心の内に住まうことによって、その人の生をさりげなく支えていく。
それこそが、人間の成しうる最大の仕事であると僕は思います。
そしてそれは、人間の存在が永遠になる瞬間でもある。
永遠になるというのは、美しいけれど、さびしいものです。
幸せだけれど、さびしいものです。
だから、みんな、泣きながら笑顔にならざるを得ない。
参列者がみな、泣きながら笑顔でいるということが、故人がどれだけの徳を積んできたか、どれだけかけがえのない存在だったかを物語ります。
泣いているだけでも、笑っているだけでもなく、別れの際に、泣きながら笑顔でいるということが、去りゆく人のかけがえのなさを、心の真奥で受け止めた証拠なんですよね。
今日は何の結論も考えず、連想のままに書いてきたのですが、ここまで書いてきて気づいたことがあります。
僕の仕事は、生徒ひとりひとりのかけがえのなさを、心の真奥で受け止める仕事だったということ。
そして、「あなたは、この世界にとって、かけがえのない存在なんだ」ということを、全霊をもって伝える仕事だったということ。
僕自身が、巣立っていく生徒の後ろ姿を見送る時、泣きながら笑顔でいるということ自体、その子が、この世にとってかけがえのない存在であることの、ひとつの証なんだということを。
その人のかけがえのなさを見、その人自身に贈り返すという仕事。
「見送る」ではなく、「見贈る」と思うと、あの得も言われぬさびしさが、すこし柔らぐような気がします。
今年度も、最高の見贈りができるよう、日々を温めていきたいです。