先日ふと、この世の中に存在するすべてのものは、様々な「願い」に対する答えの形なのではないかと思いました。
いま僕が足を入れてぬくもっているコタツも、僕のひざの上で気持ち良さそうに寝そべっている仔犬も、過去に発された様々な「願い」の答えとして、ここに存在しているのではないか、と思うのです。
たとえばコタツであれば、人々の「ぬくもりながら、ごはんを食べたい」という願い、それをより良い形で叶えたいと思った家具職人さんの願い、
それを売りたいと思ったお店の願い、そして、それを家のリビングに置きたいと思った家族の願い、そういう様々な願いの答えとして、今ここに存在している。
僕のひざの上で寝そべっている仔犬であれば、ご先祖犬達の「食べたい」「遊びたい」「子どもを残したい」という本能の中にある強い願いや、ブリーダーさんの「人間大好きなワンちゃんを育てたい」という願い、また「この子が家に来てくれたら、家の中はどんなに明るく楽しくなるだろう」という家族の願い、
そして「今はお兄ちゃんのひざの上になんだか行きたい気持ちだなあ…」と思った仔犬カロン自身の願い、そういう脈々と連なる願いの答えとして、今ここに存在している。
そんな風にして身のまわりを眺めていると、すべてのものが、様々な「願い」の原子で作られた結晶のように見えてきます。
湯気を立てている珈琲も、風に揺れるカーテンも。
その向こうに見える庭の草花も。
道路も、街も、山も、空も。
そして、自分自身もまた、父・母の願い、それに連なる先祖代々の願いの総和として、この世に生まれた存在と言えます。
そして生まれた後も、親を初めとする様々な人々の願いに重なりながら、自分でも様々なことを願って、今ここにこうして存在しています。
ごはんを食べたい、トイレに行きたい、お風呂に入りたいというような小さな願いから、この学校に進学したい、この仕事に就きたい、この場所に住みたい、この人と共に生きたい、このことを追究し続けたいというような大きな願いまで、人は、願いによって、日々自分を創っています。
コタツや道路は自分で願うことはできませんし、動物達もきっと人ほど自由に願うことはできないでしょう。
この世界の中で、人は願いによって自分を創り、世界を創っていくことができる希有な存在です。
人という存在は「もっと自由に、もっと多様に、願うことができたなら」という、生物の永きに渡る願いの答えなのかもしれません。