先日、東京に行き、大学時代の友人を中心に、色々な人と会ってきました。
様々な人と会い、会話をするうちに、人生の数ある選択の中で別の選択をしていれば、今、私が生きている人生以外の人生もあったのではないかと、そんな夢想が湧きあがってきました。
映画制作を続けていれば、映画監督になっていたかもしれない。
故郷鹿児島ではなく、東京で、あるいは海外で仕事をしていたかもしれない。
また別の人生を選んでいれば、すでに家庭をなし、子どももいたかもしれない。
あるいは、想像の及ばない、思ってもみなかった人生を歩んでいるかもしれない。
しかし同時に、私は、今私が生きている人生を愛していることにも気づきました。
この人生しかなかった、この人生を歩んできて良かった、と思えるのはなぜだろうと考えていくうちに、脳裏に浮かんできたのは、この人生を歩んできたからこそ出会えたたくさんの人達の顔です。
この生徒に出会えたのだから、この人に出会えたのだから、自分の人生はこれで良かったと思えるのです。
別の人生を選んでいれば、また別の素晴らしい人達と出会えたかもしれませんが、やっぱり私は、これまで出会って来た人たちと、この人生で出会いたいです。
もう一度、人生をやり直せるとしても、その人達に出会いたいから、きっと私は同じ道を選択するような気がします。
未来が分かっているから、楽しいこと、嬉しいことばかりじゃないことも知っているけれど、出会いと同時にいつか別れが来ることも知っているけれど、それでもなお、同じ道を選んでしまうと思います。
未来が分かっていて、同じ道を歩むというのは、とても難しく、大変なことだとは思いますが。
そう考えると、「未来が分からない」ということは、私たちに与えられた救いでもあるような気がします。
私の人生を肯定してくれるものは何か。
それは、自分の内に住まう、かけがえのない人達の姿です。
私の中には、たくさんのかげがえのない人達が住んでいて、私の人生を支え、励まし、導いてくれています。
そして同時に、自分もそのかけがえのない人達の身の内に住まい、その人の人生を、今でも、少しでも支えられているのなら、そのこともまた、私の人生を肯定してくれます。
人はひとりで生きているようですが、たくさんの人達を身の内に住まわせて今日を生きています。
また、その人自身も、これまでに出会ったたくさんの人達の身の内に住んで生きています。
自分の身の内に住んでいる他者も自分の一部だし、他者の身の内に住んでいる自分も自分の一部です。
そう考えると、自分というものは、もはや個ではなく、様々な生の複合体であり、世界に拡散して生きている集合体のようなものですね。
そのような観点に立てば、自分の人生というものは、もはや自分一人のものではなく、肯定するとか否定するとか言う類のものでもないのかもしれません。
私に別の人生があった時、私に関わる人達にも別の人生があったわけです。
そのことを思うと、「責任」という言葉も生じます。
ですが、その責任を超えていくには、肯定することでも否定することでもなく、
それぞれにその人生しか生きられなかった私たちが、不思議な縁で重なり合って生まれた、かけがえのない人生の複合体を、丸ごと慈しむことしかないと、そう思えるのです。