私の友人が東京でテレビ番組の制作をしているのですが、その友人が、出産についての番組を作った時に、様々な医療関係者に膨大な取材をしたそうです。
その時、あるお医者さんがおっしゃった話がとても印象的だったそうです。
「一度に放出される3億の精子の中で、受精にこぎつけるのは、たったのひとつです。
他の精子は卵子へ向かう旅の途中で、次々と息絶えていきます。
3億の淘汰の中で生き残り、卵子と受精できたたったひとつの精子が、私たちです。
他の3億は生まれることができなかった。
だから、「生まれる」の反対は「死ぬ」ではありません。
「生まれない」ことなのです」と。
この話はよく「この世に生を受けた私たちは誰でも、激烈な競争を勝ち抜いてきた勝者なのだよ」という比喩に用いられますが、私は「生まれない」ことに目を向けたこのお医者さんの話を聞いてこんなことを思いました。
では、その受精に成功した一匹の精子だけを放ったとして、その一匹は卵子に辿り着くことができただろうか。
いや、きっとできないだろう。
他の3億の精子達が犠牲になってくれたおかげで、あるいは守ってくれたおかげで、最後まで辿りつけた部分もきっとあっただろう。
他の3億の生まれなかった命達と旅をしたからこそ、その一匹はゴールすることができたはずだ。
だから、自分のこの命は、他の3億の生まれなかった命(さらには、それ以前に何度も失敗し消えていった何百億の命達)に支えられているのだ、と。
「生まれなかった」ものたちは、日の目を見ることもなく、死者として扱われることもありません。
しかし、そのものたちの存在がなければ、私たちも生まれることはできませんでした。
本当に尊い存在たちです。
さらに連想を広げてみると、誕生の現場だけでなく、私たちが生きるこの世界も、日の目を見ることのない尊い功労者たちに支えていることに気づきます。
たとえば、あの原発事故が未然に防がれていたとしましょう。
ただ事故は起こらなかったわけですから、ニュースになることもなく、私たちは事故を防いだ人達の知恵と努力を知ることもありません。
あれほどの甚大な被害をもたらした事故を防いだというのに。
この世には、私たちが知らないだけで、そういう事例が無数にあるはずです。
私たちは生まれる時も、そして今この瞬間も、日の目を見ることのない、無数の尊い功労者達に支えられているのです。
何かが「生まれる」ためには、無数の「生まれなかった」もの達の尊い支えが必要だということに目を向ける時、この世界が少し違って見えてくる気がします。