学習サロン ブリリアンス

どうしても受けたかった授業

【以下の文章は、2010年5月に自主発行した、私の教育活動に関するエッセイ集「英気に溢れる」のまえがきより抜粋したものです】

2007年3月、私は京都で4年ほど勤めていた大手の進学塾の講師を辞め、再スタートをするつもりでいました。

その年、4年間一貫して算数と理科を受け持った生徒達が、私立中入試で難関~中堅校(鹿児島ではラ・サール~志學館に相当)に多数合格するという、大変素晴らしい結果を残してくれました。

規模としては小さいその校舎が開校して以来の、異例の出来事でした。

それは私を含めた講師の力だけではなく、生徒達の努力や、講師間で何度も何度もアイデア出しを繰り返したことの賜物であったと思います。

当時の私は、他の学年も大切にしながら、とりわけその学年を送り出すことに全霊を傾けていました。

そして、その子達を送り出した後は、力を使い果たしている自分に気づきました。

これから先も、大きな組織の柔軟性に乏しいシステムの中で、同じような成果を目指し、指導をしていくイメージが描けないでいました。

当時私は映像制作も並行してやっておりましたので、教育を主として続けるか、映像を主として続けるか、それから先の自分の人生に見通しがまったく立たない状態でした。

夜明け前の、世界が最も暗い時間を過ごしていました。そこに、私がその先の道を決める、決定的な出来事が起こりました。

一筋の光明でした。

もたらしてくれたのは教え子でした。

その日は私は、受験学年へと上がる小学5年生の理科の授業を行なうことになっていました。

理科の授業の中で、生徒達が一番興味津々となる、「ヒトの生命の誕生」がテーマでした。

毎年、恥ずかしさと好奇心が入り混じった気持ちの中、生徒達の目が大きく見開かれる単元です。

当日、私は校長から次のような申し送りを受けていました。

「普段は習い事の都合で、理科を受講していない生徒が、今日はたまたま習い事がないため、是非理科の授業を受けたいという申し出がありました。しかし、その分の授業料を頂いておらず、他の生徒と不公平になるため、受講は許可できないとの旨を、その子にも保護者にもお伝えしてあります」と。

その子は、それまで理科の授業を受けていませんでしたが、テキストを読んで、自学自習していました。

私は、その子のために、休み時間など時間を見つけては、質問に答えたり、各単元のエッセンスなどをできる限り伝えていました。

せっかくの機会でしたが、校長からの指示に従い、少し残念な気持ちを抱えたまま、私は授業に向かいました。

一時間目の授業は、予想通り大変に盛り上がりました。

顔を赤らめ伏し目がちに黒板を凝視する子、普段と違って妙に神妙な顔をしている子、お茶らけることで恥ずかしさを克服しようとする子、態度は実に様々です。

しかし、どの子の身体からも、本能的な好奇心が力強く発せられ、それが津波のように私の所に向かってくるのです。

一時間目の授業が終わろうとする頃、私はふと、教室のドアが少しだけ開いていることに気づきました。

その暗いすき間をよく見てみると、ふたつの目がじっとこちらを見ています。

私は直感し、ドアを開けに行きました。

すると、理科の授業を受けたいと申し出ていた子が、地べたに座り込んで、テキストとノートを広げ、じっと授業を覗き込んでいるではありませんか。

私の内に込み上げてくるものがありました。

小学5年生が、ここまでして何かを学びたいと思うものなのでしょうか。

独りで息を潜めながら、私の授業を聞いていたであろうその子を思うと、感動と申し訳なさが胸に溢れてきました。

私は何も言わずに、その子を教室に入れ、独断でしたが、一時間目の授業の残りと、二時間目を受けてもらいました。

授業後、私はその子と二人で話をしました。

その子は、私が辞めるということを密かに知っていて、そのことも、何としても授業を受けたいという気持ちの後押しになったようでした。

対話の中で、その子の目から涙がこぼれ落ちた時、私は、人が何かを学びたいと思う心の尊さに打ちのめされた気持ちになりました。

「普段は眠っていることも多いが、人間の魂の底には、学びへの強い渇望があるのだ。私は子ども達の『学びたい』という魂にただ応えたい」

そのような思いとエネルギーが、私の内に湧き上がってきました。

そして、その子との出来事を反芻するうちに、他の子ども達からも、寄せ書きなどで多くの感謝と激励の言葉を頂くうちに、私の次の道が固まっていきました。

「私は、もっと自由に私自身の教育観を深め、実践したい。そして、それを多くの人に伝えていきたい」と決意したのです。

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