昨日は、ある生徒からこんな相談を受けました。
”国語の物語文で、主人公の気持ちを書く問題がなかなか正解できません。
例えば、「悔しい気持ち」と答えるべきところを「ねたましい気持ち」と答えてしまって、×になってしまいます。
その悩みを学校の国語の先生に相談したところ、先生からは
「問題をたくさん解きなさい。主人公の心情はパターン化できるから。」
と言われました。
でも、パターン化って、どうすればできるんでしょうか?”
私はこの話を聞いて、悲しい気持ちになりました。
たしかに、高校入試の国語の問題で出てくる主人公の心情というのは、特殊なものは少なく、ある程度類型化されるでしょう。
そのパターンを把握していれば、減点されにくい答えを思いつきやすくなるのも事実です。
しかし、そのような視点で国語を勉強するのは非常に悲しいことだと私は思うのです。
人間の心情は、究極的にはパターン化などできないと私は思います。
似たような心情であっても、それぞれが生きてきた文脈は違うし、思考回路も違うから、必ず微妙な差異があるはずです。
血液型みたいにA型、B型、O型、AB型と分けらるはずがない。
もし、そういうパターン化で事が済ませられるなら、心情を表現するための日本語は四個で済んでしまう。
それほど人間の心はスカスカなものではないし、日本語もスカスカなものではない。
逆に、微妙な差異をもつ様々な人間の心情を表現するために、長い時間をかけて、日本語はたくさんの言葉を生んできたはずです。
だけど、どんなに言葉を生み出しても、どんなに言葉を尽くしても、人間の心情を完全に評することはできないでしょう。
どんなに言葉を身につけても、完全に心情を説明することはできないという、「足りなさ」を身に刻むこと。
その上で、その人の心情に「より近い」適切な言葉を探し抜くために、たくさんの言葉を深く身につけていくこと。
国語で物語文を学ぶ心構えとはそのようなものではないかと私は思っています。
そこで、私は以上のような前置きをした後に、生徒にこう伝えました。
”問題をたくさん解くというのは僕も賛成です。
でもそれは心情をパターン化するためではなく、人間の心情を表現するための様々な言葉を、より多く自分に仕入れるために行うべきだと思うよ。
ある人間の心情を表現したい時に、一個しか表現が思いつかないか、似たような表現を幾つか思いつくかでは随分違います。
一個しか思いつかなければ、それを書くしかないけど、幾つかの似たような表現を思いつければ、どれが一番適切か吟味することができます。
言葉をたくさん仕入れて、「言葉の吟味」ができる能力を高めていくことが、国語を学ぶ大きな目的のひとつだと僕は思うし、それができれば物語文の成績もきっと上がるよ”と。
その生徒は、よく頷きながら聞いてくれていました。
僕は国語指導の専門家ではないですし、「言うは易い」のも認めます。
でもせっかく人生で一番勉強するであろう受験期ですから、どういう心構えで勉強するかによって、成績ではなく、その後の生徒の「モノの観方」に大きな差が生まれてくると思うのです。
僕が国語の先生ならば、生徒達には受験のために国語を勉強するのではなくて、受験を利用して、国語に対する眼差しを深めていく勉強をしてほしいです。
そのささやかな副産物として、先生のおっしゃる「パターン化」の意味するところも分かってくるでしょう。