【以下の文章は、2010年5月に自主発行した、私の教育活動に関するエッセイ集「英気に溢れる」より抜粋したものです】
あなたは初めて会った人、あるいは久しぶりにあった友人・親戚になんと自己を説明するでしょうか。
仕事を主にするならば、「○○株式会社に勤務しております、○○と申します。○○を販売しております…。」というような感じでしょうか。
もしその場が、お見合いやコンパの席であれば、「趣味はスノーボードです。冬に有給をまとめて取って、1週間ほど北海道に行きます。」と言ったようなフレーズが付け加わっていくでしょう。
それら仕事や趣味と言うようなものは、他者にも伝わりやすい、その人の「輪郭」の部分です。
そのような儀礼を通過した後、相手との付き合いを続けていきたい場合は、分かりやすい「輪郭」を小道具にしつつ、互いに重なり合う部分を探して話を展開させていきます。
「○○○がお好きなんですか?私も若い時から好きで…」と言った具合です。
また、相手への興味が深まってくると、知りたいのは「輪郭」の部分ではなくなってきます。
その人がどんな人生だったのか、どんな未来を描いているのか、どんな価値観をもっているのか、どんな人柄か…と、より伝達するのに時間がかかる、その人の人格を構成する核心的な領域に入って行きたくなるのです。
そこらへんの領域になってくると、聞き手が頭で理解できる部分は減り、六感(五感+直感)で把握する情報の方が増えてきます。
「理由はうまく説明できないけど、この人からは、何か温かいものを感じる。美しいものを感じる。スケールの大きさを感じる。一本筋の通った感じを受ける…」と言った具合です。
核心的な部分というのは、話し手である本人ですらよく分かっていなかったり、そもそも言葉で説明するのは難しいものです。
私は、その領域をもっと掘り進めたところに、仕事でも趣味でもない、その人をその人足らしめているものがあるように思います。
その人の持って生まれた気質に包まれながら、人生の中で得た学びが加わって、磨かれていった玉のようなもの。それを魂と呼ぶのではないかと思うのです。
3歳の自分に戻って自己紹介をしてみましょう。
3歳の自分には、仕事も学校も趣味もありません。
せいぜい説明できるのは「わたしのなまえは○○です。3さいです。おとうさんとおかあさんとおにいちゃんがいます。」というぐらいのものです。
3歳の自分にあるのは、肉体の他にはただひとつの魂だけ。
一番伝えたいものに言葉は追いつきません。
それは結局のところ、20歳になっても、100歳になっても変わらないのです。
魂に言葉は追いつかないのです。
他者と触れ合う時、それが3歳であっても、100歳であっても、一番伝えたいものは言葉にはならないことを、心の隅に置いておきたいものです。