【以下の文章は、2010年5月に自主発行した、私の教育活動に関するエッセイ集「英気に溢れる」より抜粋したものです】
生徒が「こんにちは」と言って教室に入ってきます。
私も「こんにちは」と言います。
生徒が「ありがとうございました。さようなら」と言って帰っていきます。
私も「ありがとうございました。さようなら」と言って見送ります。
生徒が「こんにちは」と入ってきて、「さようなら」と帰っていく。
日々の授業は、出会いと別れの繰り返しです。
生徒が教室の扉を開く前に、私は、その子の魂が今日どんな色であるのか、どんな輝きであるのか、静かに思う時間をとることがあります。
私と会っていない間に、生徒たちはきっとたくさんの体験をし、内面を変化させていることでしょう。
楽しいこともあったろうし、辛いこともあったかもしれません。
それらすべてを栄養にして、心身と魂は成長していきます。
その子の世界は、ゆるやかに続きながら、昨日とは全く違うものであるかもしれません。
ですから、その子と初めて会った時と同じように、「どんな気質を、どんな才能を持ってるのかな。今、どんな魂の色と光を放っているのかな。今日が良い授業になるといいな」などと想像しながら、その子の到着を待つのです。
教室に入って来た生徒と挨拶を交わす時、一番に思うことは「今日もよく来てくれたなあ」ということです。
この仕事を始めて以来、生徒たちが、何らかの事情から突然教室に通えなくなることを経験する度に、学ぶ意志を持った人と人がひとつの場所に集うということが、いかに奇跡的であるかを痛感してきたからです。
挨拶を交わす時、その子が、私の知りえない人生の物語の中で磨いてきた魂の色と輝きを、今日、この教室に運んできてくれたことに対する感謝と、「今日の授業が、その子の魂を輝かせる触媒となりますように」という祈りのようなものが込み上がってくるのです。
授業というのは、ひとつの知的冒険の中へ参加者全員が没入していく時に生き生きとしたものになります。
ですから、その最中は、師も生徒も、その世界へ没入した意識のまま、我に返らないほうが良いのです。
我に返るということは、その冒険からの一時的な離脱を意味します。
我に返るのは、授業が終わり、生徒たちが家に帰っていく姿を見送る時です。
「ありがとうございました。さようなら」と言って、消えていく生徒の後ろ姿を見送る時、今日の授業がどんなものであったか、その感慨が少しずつ身の内に染み渡ってきます。
良い授業だったと胸を張れる時もあれば、そう言い切れないもどかしさを抱える時もあります。
教育の答えは、その瞬間に出ることは少なく、永い時間を要したり、大きな回り道をしたりすることで現れて来るものだからです。
ひとつの尊い魂が家へと帰る姿を見送る時、再び祈りのようなものが身の内に蘇ってきます。
今日の授業が、その子の魂を輝かせる触媒となりますように。