学習サロン ブリリアンス

演じるということ

先生も初めのうちは、みんな素人で、周囲から学び、先生を演じていくうちに、いつの間にか先生になっていきます。

それは他の職業でも多分同じでしょう。 弁護士も、医者も、企業に勤める人も、自営業をしている人も、社長さんも、国会議員も、職人も、成りたての時は、(知識や技術はそれなりにあるものの)、経験値0の素人です。

でも、自分は弁護士なんだ、医者なんだ、○○会社の社員なんだ、社長なんだ・・・と言いきかせて、それを真剣に演じて行くうちに、知らぬ間にそうなっていく。 ただ、うまく演じ切れずに、別の道へと進んでいかざるを得ない人も一定数います。

学生もきっと同じで、○○高校生を演じていく(あるいは演じさせられていく?)うちに、○○校生になっていきます。

学校にはそれぞれに規則や風土があります。 入学したての時は、その学校の生徒であることがどういうものなのか、みんな分からない。

ただ、その学校の制服を着た瞬間に「演技」は強制的にスタートします。 他者に「あなたは何高生?」と聞かれれば、その高校がどんなところなのか全然わかっていないけれど、ひとまず「○○高生です」と答えます。

その後、授業を受け、テストを受け、友達や先輩や先生とコミュニケートし、様々な行事に参加しながら、なんとなく、その学校の生徒を「演じる」ということがどういうことなのか分かってくる。

その後、学生は幾つかのタイプに分かれていくように思います。
①演じているという意識を持たないまま、自然にその学校の波に乗れる生徒
②演じることを意図的に楽しみながら、自分の居場所を見つけて行く生徒
③その学校の生徒でいるために、多少無理しつつ意識的に演技を続ける生徒
④「演じる」ことに違和感を感じ、学校と言う舞台から距離を取る(降りる)生徒

④の生徒は大変です。学校という舞台から一度降りて、元いた舞台を眺めてみると、舞台の中にいる時には見えなかった様々なことが見えてくる。 学校というシステムの良いところも、不条理なところも見えてくる。

そしてさらに、制服という「衣装」を脱ぎ去った瞬間に、(すなわち「役」というものを捨てた瞬間に)自分とは、一体何者で、どこへ向かいたい存在なのかという、重い問いに直面せざるを得なくなります。

その上で、再び舞台に戻ってその学校の生徒を演じるという選択をするか、舞台には戻らず、別の道を探すという選択をするか、選ばないといけません。
これは高校生ぐらいの年齢の子にとっては(いや大人であっても)、結構つらいことです。

日本の社会や学校が、「(社会や学校が要求する)役をうまく演じる」ことを基盤にしている中で、それを俯瞰的に観た上で、自分の立ち位置を決め、次の一歩を踏み出していくには、自信と勇気と周りの支えが必要です。

若い身空で、それだけのことを成しきるのは、システムの中で上手く波に乗り、うまく役を演じることができることよりも、すごいことかもしれません。

でも実は、そういう若い人たちの中に、これからの日本をより風通しの良いものに変えていく力をもった人がいるような気がします。

そういう若い人たちに対して、私の教室が何ができるか、まだはっきりとした答えは出ていません。

でも少なくとも、その状況には必ず大きな希望が潜んでいるということだけは、ずっと伝え続けていきたいです。

「演じる」ということは奥が深いです。
究極的には、人間は人間という役を演じているのかもしれません。
人間をうまく演じられる人間と、演じられない人間がいる。
そして、私は私という(降りることのできない)役を演じ続けているのかもしれない。
では、その役を降りた時に、私は何になるのか?

このテーマは、これからも掘り下げていきたいので、また機会があれば続きを書きたいと思います。

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