
子どもの頃、父の車で田舎に帰る途中に、いつも高い確率で停車することになる信号がありました。信号待ちをしている時に、ふいに窓の外に目をやると、古い民家の塀のすきまから、雑草がちょろっと顔を出しているのが見えます。私はその雑草をじっと見つめました。
「この小さな雑草をじっと見つめた人間は、この世界でぼく一人だけかもしれない。この雑草が、この場所に存在しているということを知っている人間は、この世界でぼく一人だけかもしれない。」
そんなことを思っているうちに、信号は青に変わり、車は動き始めます。
「また会おう」
私は雑草にさよならを言います。
一カ月くらいして、また田舎に帰る時に、車は例の信号で停車しました。私は窓の外の塀のすき間に目をやります。
「まだあの雑草は生えているだろうか」
生えていました。多分前と同じ雑草が、同じ場所に。私は嬉しくなりました。
「雑草は、ぼくに見つめられているということを知っているだろうか」
そんなことを思っているうちに、
信号は青に変わり、車は動き始めます。
「また会おう」
私は雑草にさよならを言います。
その後、何回もその場所で車は止まりました。その度に私は、塀のすき間の雑草に目をやったはずです。しかし、その雑草とのコミュニケーションがどのような形で終わったのか、その記憶が曖昧なのです。その雑草がなくなってしまったような気もしますし、たくさんの雑草が繁茂してどれがどれだか分からなくなったような気もしますし、父がその道を通らなくなったような気もします。
夢の中の出来ごとのように、その雑草との終わりはふわふわとしているのですが、その体験は不思議と私の今の仕事につながっているように思うのです。
偶然のタイミングで、ふと目にしたものを、見つめ続けていくこと。誰も目をやらないような場所に眠る小さな生命力に、光を当てること。
雨音を聞きながら、教室の軒先に飾っているあじさいを見ていたら、ふと大昔の記憶と今がつながりました。