我々教育に携わる者がしている仕事とは一体何なのか。
後ろを振り返る間もない程慌ただしかった受験シーズンを終え、一年の中で比較的穏やかなこの3月の時の中で考えてみた。
塾でも学校でも、最後まで通い、卒業できるということは実は非常に幸運なことだと思う。
高校には3年、大学には4年の就学期間が設定されてはいるが、実際には、人がある場所に通い、そこで何かを学ぼうとする時、その人と学び舎の間には固有の「賞味期限」のようなものがあるのではないかと思う。
様々な理由から学校に通えなくなったり、通う意味がなくなったりして、中退していく人も少なからずいる。
また、大学であれば5年、6年の時間をかけて卒業していく人もいる。
不本意な場合もあるとは思うが、多くのケースにおいて、それがその人とその学び舎との適切な時の量だったのではないかと思う。
最後まで通いたかったなあとか、卒業したかったなあとか、浪人や留年せずに決められた年限で出たかったなあとか、「常識」に照らせば、悔いや無念の思いが出てくるかもしれない。
でも、本来、人がどこかで誰かから何かを学ぶのに必要な時は一律ではない。
その学び舎に通うことに、意味を持ち続けられる期間は、人によって違う。
そしてそれはいつもふたを開けてみないと分からない。
入学する時点では分からず、終わってみないと分からないのだ。
さらには、そこで学んだことが、そこで過ごした日々が、その人の人生にどんな意味を持つのかは、それから先を生きてみないと分からない。
中退したり、浪人や留年をしたりしたとしても、その学び舎で過ごした時間が、その量とその形であったからこそ、当人の未来に大きな働きをすることもある。
学び舎には様々な人が集う。
幸運にも卒業していける人もいれば、標準とは異なる過ごし方をして旅立っていく人もいる。
塾も同じだ。
受験の時まで通って、合格して、笑顔で卒業していくというのが理想だろう。
でも、当人がその塾に通う意味を持ち続けられる期間と言うのは人それぞれである。
三ヶ月でその塾のエッセンスを学びつくす人もいれば、何年もかけてようやく一つを学び取る人もいる。
また塾に通うということはその人自身を変化させていくことだから、通っていく中である日突然、その塾に通うということの重さが変わり、通塾が困難になってしまうこともある。
教える側は理想を胸に抱いて日々の指導を行うが、心の片隅で、突然の予期せぬ卒業を受け止めるだけの準備をしておかなければならない。
たとえそうなったとしても、悔いがないように、ひとつひとつの言葉に、一期一会の心持ちを忍ばせていなくてはならない。
そのようなことを思っていると、我々教育に携わる者がしている仕事とは何か、そのひとつの側面が見えてきた。
それは、「点をつくる」ことである。
生徒の人生の中に、ひとつのしっかりとした点をつくることである。
その点が何をもたらすかは、その時には分からない。
しかし、いつか遠い未来に、その学び舎で過ごした月日が残す「ひとつの点」が、その人の人生における他の様々な点と線で結ばれて、その人ならではの道を描くよう、祈りを込めて日々の指導を行うことではないかと思う。
スティーブ・ジョブズの有名なスピーチにもあるが、点を結ぶことができるのは、後から、回顧的に自分の人生を振り返った時だけである。
その点があることで、結ばれた線に命が生まれるような、その人の生に奥行きが生まれるような、そんな点をつくること。
それが教育に携わる者が気づかずに日々している仕事の本質なのではないかと思う。
教育とは、生徒の歩みに「点をつける」ことではない。
生徒の歩みに「点をつくる」ことである。
(-2016年3月30日 ブリリアンスtwitterより)