これもまた、私が東北大学に数カ月だけ在籍していた時の、忘れられない言葉のお話です。
悶々とした日々を過ごしていた私は、ある日突然、妙な衝動に駆られました。
「そうだ、中尊寺金色堂まで自転車で行こう!」
宮城県仙台市から、中尊寺金色堂がある岩手県の西磐井郡平泉町までは、100km以上の道のりがあります。
衝動に駆られて、無茶な遠出をしたくなるのは中学時代からの自分のクセです。
夜が明けるのを待って、私は通学用の自転車(いわゆるシティサイクルと呼ばれる普通の自転車)にまたがり、平泉に向けて出発しました。
その日は天気もよく、東北ののどかな風景を楽しみながら、私は快調に自転車を飛ばしていきました。
初めの数十kmは楽しかったのですが、途中で大きなアクシデントがありました。
岩手県のたしか栗原市(震災で最大震度7を記録した街ですね…)に突入した頃だったでしょうか、足腰に疲労が溜まり始めていた私は、とあるコンビニに自転車を停め、飲み物を買うため、中に入りました。
店内で飲み物を探していると、一見して清潔感のない、やつれた風体の初老の男性が、お酒のコーナーでパックの日本酒を探していました。
私はその男性と一瞬目が合い、なぜかその男性はにこーっと私にほほえみかけてきました。
気持ち悪くなった私はすぐに眼をそらして、男性をやり過ごすため、買う物はもう決めていたにも関わらず、まだ商品選びに専念しているフリをしました。
すると、その男性は日本酒のパックを手に取り、レジで会計を済ませて、外に出て行きました。
ほっとした私も、自分の会計を済ませて、外に出ました。
自分の自転車を停めた所に戻ってみると、自転車の前かごに、中のふくらんだコンビニのビニール袋が置かれていました。
何だろう?と思って、ビニール袋をのぞいてみると、中には白鶴の縁起の良さそうなパック酒が入っているではありませんか。
さっきのおじさんだ!
私は、周囲を見回してみましたが、おじさんの姿はどこにもありません。
私は仕方なく、その日本酒のパックをコンビニの店員さんに預け、不可解な気分を抱えながら、再び自転車をこぎ出そうとしました。
その時、私は驚愕の事実に気づきました。
前輪が完全にパンクしているのです。
タイヤを注意深くチェックしてみると、画鋲が数個刺さっています。
コンビニに自転車を停めるまではタイヤはなんともなかったのです。
となると…コンビニに停めている間に画鋲が刺さった可能性が高い。
私は、ひとつの可能性を想像して、急に怒りと寒気を感じました。
これは全部さっきのおじさんの仕業ではないか?
タイヤをパンクさせる代わりに日本酒をあげるよ、という奇妙なアメとムチを僕に贈ったのではないか?
でも一体何のために?
どうしてこれが僕の自転車だと分かったんだろう?
私は、先ほどのおじさんの奇怪な「ほほえみ」を思い出して、ますます怖くなってきて、一刻も早くその場を離れようと、パンクをした自転車を押して移動を始めました。
しかし、なかなかパンクを修理してくれそうな自転車屋は見つかりません。
しばらく行ったところのガソリンスタンドで「近所に自転車屋さんはありませんか?」と尋ねるも、「いやあ、この近くにはないですねえ」と、そっけないひと言。
どうしたものかと途方に暮れながら自転車を押していると、なんとそのガソリンスタンドから500mも行かないところに大きな自転車屋があるではないですか!
私は心の中でガソリンスタンドの店員さんに「思いっきり目立つ自転車屋が近くにあるやんけ!」と突っ込みを入れながら、九死に一生を得た思いで自転車屋にピットインしました。
なんとかパンクを直してもらったものの、随分と時間が立ってしまい、精神的にも疲労が溜まっていました。
再び自転車をこぎ始めたのですが、ついに日が落ちてしまい、平泉になんとか入った頃にはあたりは真っ暗、疲労と空腹も限界に達していました。
とにかくどこかで食事を取らなければと思ったのですが、ごはんが食べられそうなお店はなかなか出てきません。
もう限界だ…と思った矢先、目の前に一軒の温かな灯りが現れました。
「二足の草鞋(わらじ)」という看板のかかった、新しいけれど風情のあるそば屋でした。
ものすごく高いお店だったらどうしようと、財布にそれほど持ち合わせのない大学1年生の私は、少々びくびくしながら、店内に入りました。
木の温かみと香りが生かされた広い店内、真ん中には確か囲炉裏があったと思います。
お客さんは私一人でした。
店主は40歳前後の理知的な風情を漂わせた男性で、奥さんと二人で店を切り盛りされているようでした。
奥さんが持ってきて下さったメニューを見て、私はほっとしました。
私は、おそばとおにぎりがついた1000円ぐらいの定食を頼みました。
私の身体にみるみる元気が回復していきました。
たしかにおそばも身に染みるほど美味しかったのですが、その店内の空気、佇まいが私の精神によく合い、エネルギーをもたらしてくれたのだと思います。
ひと息ついた頃、私は店主さんにこう話しかけました。
「おそば大変美味しかったです。ありがとうございました。木を生かした店内もとても落ち着きますし、店名の『二足のわらじ』も素敵ですね。これは奥さんと二人三脚でやっていくという意味ですか?」
店主さんは、笑いながらこうおっしゃいました。
「あははは、違いますよ。二足のわらじというのは、あんまり良い意味ではなくて、私はパソコン関係の仕事もやっていて、そば屋と『二足のわらじ』を履いてやってますよ、という意味なんです。」
恥ずかしい話ですが、私はその時まで、「二足のわらじ」を完全に取り違えていました。
その後、自分が東北大の学生です、というのがどれくらい恥ずかしかったことでしょうか。
しかし、そのずっこけた空気が、店主さんとの距離を縮めたのかもしれません。
私が、自転車で仙台から平泉までやってきたこと、泊まる宿をまだ決めていないことなどを話すと、店主さんはびっくりされ、近くに安くで泊まれる青少年宿泊センターというところがあるから、そこに予約をとってあげるよ、と言って下さったのです。
しかも、もう今日はお店を締めるから、自転車を軽トラの荷台に積んで、宿泊センターまで乗せていってあげるよ、とまで言ってくださったのです。
私は、店主さんのあまりの優しさに、感謝感激雨あられの心持ちでした。
正直に言って、見知らぬ町で宿を探す元気など、もう残っていなかったのです。
恐縮しながらも、私は店主さんのお言葉に甘えることにしました。
店主さんは私の自転車を見て「よくこれでここまできたね」とさらにビックリされていたようでした。
軽トラはしばらく山道を走り、宿泊施設に到着しました。
私は店主さんに何度もお礼を言いました。
およそ、そば屋の大将には見えない、理知的な面差しの店主さんは、さわやかな笑顔で帰って行かれました。
車内でも店主さんと色々とお話したはずなのですが、その内容はあまり覚えていなくて、私の頭の中には「二足のわらじ」という言葉が何度も響き渡っていました。
私の平泉への旅は、この店主さんとの出会いがクライマックスであったと思います。
翌日、中尊寺金色堂へ行き、また100km以上の帰路を帰って仙台に着いたのですが、2日目の出来事は、あまり私の印象に残ってはいません。
私は「二足のわらじ」という言葉との出会うために旅をした気がします。
というのも後年、私は、自分こそ「二足のわらじ」を履いて生きているタイプの人間だということに気づいたからです。
京大に再受験して入学して以降、私は「教育」と「映画」の二足のわらじを履いて生きていました。
学生時代は「教育と子どもを考えるサークル」と「自主映画制作サークル」を掛け持ちしていましたし、その後は「塾講師業」と「映像制作業」の両輪で生きてきました。
2007年に、ふたつとも全力でやっていくのに限界が訪れ、私は本業を教育に据え、鹿児島に戻りましたが、それまでの「二足のわらじ」の歩みは、私の人生にとって必要不可欠な時間だったと思っています。
一般的に「二足のわらじ」は悪いニュアンスで語られることが多いと思うのですが、世の中には、一つの極ではなく、二つの極をもつことで前に進んでいけるタイプの人もいるのだと思うんです。
やじろべーのように二つの極を行ったり来たりすることで、心身のバランスを保ちながら、片方の極で学んだことを、もう片方に生かしていく。
私は、映画で学んだことを教育に生かしたり、逆に教育で学んだことを映画に生かしながら、前に進んでいました。
そういった「二足のわらじ」を履くことで前に進むことのできる私と同種の、とても理知的で優しい人生の先輩と18歳の時に出会えていたからこそ、時を経た後に、私は自分の生き方を肯定できたように思うのです。
その店主さんとの一期一会には今でも感謝しています。
それから今回の日記を書いていて、もう一人感謝をしなければならない人がいることに気づきました。
あの日本酒の変なおじさんです。
あのおじさんが私にアクシデントをもたらさなければ、私はもっとスムーズに平泉に着いて、別の店で食事をし、「二足のわらじ」とは出会わなかった可能性が極めて高いのです。
そう考えると、あのおじさんにも感謝をしなければなりません。
あのおじさんは一体何者だったんでしょうか…。
ともかく、人生のドラマは、一見良くないように思える出来事にさえも支えられている、ということです。
東日本大震災以後、13年前に東北で過ごした数カ月の時間が色濃く思い出されるようになりました。
たった数カ月ではありましたが、私にとっては大切な学びをした数ヶ月でした。
近いうちにまた東北地方を旅して、「二足の草鞋」を再び訪ねてみたいと思っています。