自分の人生を一本の映画にするならと空想してみた。
自分の生まれてから死ぬまでの物語を、2時間の映画として再構成するのだ。
登場人物を俳優に演じてもらうわけではない。
改めて撮影を行うわけでもない。
自分の中にある人生の記憶と、自分に関わりがあった人々の中にある記憶を取りだして、それらをつないで映画を作ることができるなら、という仮定の話だ。
自分が五感で写し取り、心に記録した自分の人生、すなわち、自分で「撮影」した主観的な自分の人生と、周りの人が「撮影」してくれた客観的な自分の人生を、どのように重ねていけばよいだろうか。
何十万時間にも及ぶ膨大な記憶の映像。
その中から、この映画にとって必要な映像を選び出していく。
一体どんなシーンから始めたらいいだろう?
生まれた瞬間から?物心ついた時から?
それとも長い人生の中で、自分が本当に誕生したと思える日から?
一体どんな人との出逢いを濃く描くだろうか?
家族?親友?恋人?将来の家族?
また、どんなシーンが映画のクライマックスとなるだろうか?
そのクライマックスは、自分の人生にすでに訪れているのだろうか?
それともこれからの出来事であろうか?
自分の人生のテーマは一体何だろう?
きっと、そのテーマに導かれて、自ずとクライマックスもラストシーンも決まるはずだ。
自分の人生の映画は、どんなシーンで終わるだろうか。
自分が死する瞬間であろうか?
自分はどのような形でこの世を去るのであろうか?
大切な人たちに見守られながら、人生を終えられるだろうか?
その死がどんな形であれ、自分の中の記憶は黒くフェードアウトしていく。
しかし、自分を見送ってくれるかけがえのない人たちは、自分が死した後も撮影を続けてくれるだろう。
自分が何をこの世に残したのか。
それを教えてくれるだろう。
だから、ラストシーンは自分の死の先にあるかもしれない。
ラストシーンのあと、映画には余韻を味わう数分の時が用意されている。
エンドロールである。
真っ暗な背景の中を、映画に登場したすべての役者、すべてのスタッフの名前が流れて行く。
一本の映画を創るのには、驚くほど多くの人間が関わっている。
もちろん、それを鑑賞してくれる観客も含めて。
あらゆる芸術は、それを鑑賞する他者がいなければ成立しないのだ。
エンドロールは、製作者の責任であり、誇りでもあり、観客への感謝でもある。
自分の人生の映画。
そのエンドロールは一体どんなものとなるだろうか。
最初に流れてくる名前は、主演である自分自身である。
それは動かしようがない。
どんなに愚かな人生の物語であっても、主演を他人に譲ることはできない。
自分は自分の人生の主演であったと、胸を張れるだろうか?
次に流れてくるのは、助演である。
ここには「人生のパートナー」が配されるであろう。
それが誰か、私にはまだ分からない。
そして、様々な人生の登場人物が流れて行く。
父の名前、母の名前、兄弟の名前、祖父母の名前、子供の名前。
家族の名前は大きな文字で刻まれるであろう。
さらには、自分の人生で重要な役割を果たしてくれた人達、
親族、友人、恋人、先輩、先生などの名前が現れてくるだろう。
また、会ったことはないが、自分の人生に大きな影響を与えた人物、作家や画家や音楽家や映画監督や著名人の名前が大きくクレジットされるかもしれない。
それから、小さな文字で、自分の人生の中で関わりのあった、すべての登場人物の名前が流れて行く。
おびただしい数に上るだろう。
一本の樹を支えるには、太い幹だけでなく、表には現れない、地中の細かい根の枝分かれが必要である。
それと同じように、きっと人生の物語も、多くの細やかな出会いに支えられている。
キャストの名前が終わると、次に流れるのはスタッフの名前だ。
人生の脚本は、誰が書いたものであったろうか?
自分の名前がちゃんとそこにクレジットされているだろうか。
人生の脚本は、自分ひとりだけで書いたものではないかもしれない。
大切なパートナーとの共同執筆部分があったかもしれない。
脚本が自分で書けない時、そっと示唆を与えてくれた人がいたかもしれない。
筋書きのなかった部分を、導かれるように生きてきた時もあったかもしれない。
人生の脚本家の名前は、単純に自分自身だけとは言い切れない奥深さがある。
しかし、そこに自分の名前がまったく載らない人生は、一体誰の人生であろうか?
そして、様々なスタッフや、協賛してくれた人、企業などの名前が流れる。
通った学校や、就職した会社、よく通ったお店や、好きな場所、お世話になった病院などもここにクレジットされるだろう。
それだけではない。
通学に使った自転車、大好きだった弁当箱、こづかいを貯めて買ったジーンズ、たくさんの思い出を撮ったカメラ、家族を旅に連れて行ってくれた自動車など、人だけでなく、自分の人生を陰で支え、彩ってくれたたくさんの品物がクレジットされたっていいのだ。
最後の方で、プロデューサーの名前が流れてくる。
映画を企画し完成させ公開までこぎつけるために、その映画の素晴らしさを宣伝しながら、資金や、キャストや、スタッフ集めなどの下準備に奔走する役割の人である。
自分の人生の物語のプロデューサーは誰か?
私が生まれる前から、これから始まる私の人生の物語の価値を知っていてくれて、私をこの世に誕生させるため、登場人物など、様々なものを集めて、見えない下準備をしてくれた人である。
この偉大なプロデューサーの名前は書かない方がいいのかもしれない。
書かない方が、その人の惜しみない愛情に、敬意を持って応えることになる気がする。
そして、最後の最後に、人生の映画の監督名が流れてくる。
これも主演と同様、自分自身でありたい。
それを他人に譲ってはならないと私は思う。
なぜなら、監督の最大の仕事は、「OKを出すこと」であるから。
撮影の際、あるシーンを撮り終えると、監督はそれを見て、OKかNGを出す。
NGが出ればもう一度やり直し、OKが出れば次の撮影に進む。
監督がOKを出すということは、換言すれば、監督がそのシーンに責任を持つ、ということである。
だからこそ、納得がいくまで、責任が取れると言い切れるまで、NGを出し続けることもあるのだ。
そして、撮影だけでなく、監督は映画作りのすべての工程で、ひとつひとつにOKを出していく。
衣装はこれでOK、音楽はこれでOK、編集はこれでOKという風に。
「OK」という言葉は、「私が責任を持ちます」の言い換えである。
だから、監督名はエンドロールの最後に流れるのである。
エンドロールも含めて、私がこの映画の創作におけるすべての工程にOKを出しました、創作上の責任はすべて私にあります、という意味が込められているのだ。
他人に自分の人生の監督をしてもらった、監督をされたと思って、死ぬ人生は哀しい。
他人によって、自分の人生にOKやNGを出されて生きてきたと思ってしまうような人生は、むなしい。
だって、他人が自分の人生の監督を代わることは、本当はできないのだから。
私自身の人生に、他人は責任を負えないのだから。
普通の映画と違って、人生の映画は撮り直しがきかない。
NGだから、もう一回、はない。
そこが人生の監督する上で難しいところである。
しかし、どんな人生の映画であれ、OKを出せるのは、唯一監督だけの仕事なのだ。
人生の物語を「全体として最高のOK」に導けるのは監督だけなのである。
どんな愚かな、醜い出来事だって、「全体として最高のOK」に導くための、ひとつの要素に変える力を持っているのは、監督しかいない。
そして、その監督は、まぎれもなくこの自分自身であったと、胸を張って、人生を終わりたい。
私は、自分のすべての人生に責任を持ってOKを出せます、と静かに目を閉じたい。
そこには、おそらく、ありがとう、という言葉しかないだろう。
人生のエンドロールは、自分の人生に対する責任と誇り、そして、それを見守ってくれた数限りない人々への感謝の表明である。