私は以前から「思った通りに事が実現するだけの人生はつまらない」と思っている自分に気づいてました。
例えば、目標を設定し、それをクリアするための計画を立て、その計画を着実に遂行し、目標を達成する、というだけの勉強や仕事のやり方は面白くないと思うのです。
たしかに、具体的な目標を達成するための方法論として、目標設定→計画立案→計画遂行→目標達成、という枠組みは有用だと思います。
しかし、それを、勉強や仕事、ひいては生き方の根幹となる哲学にしてしまっては、まったく味気がないと思うのです。
巷には、○○年までに東大合格者を100人にするとか、売上を100億円にするとか、店舗を200に増やすとか、年収を2000万円にするとか言う目標が踊っています。
そして、それを達成するために、よく考えられた「プログラム」が立案され、人々はそれを一生懸命遂行しています。
もちろん、思った通りに計画がクリアされ、目標が達成されていく時は嬉しいでしょうし、充実感もあるでしょう。
私自身も、数値的な計画や目標は立てていますし、その有用性も知っているつもりです。
しかし、決してそのことが、勉強や仕事、ひいては生き方の根幹になるような「本質的な喜び」をもたらすわけではないと思うのです。
誤解を恐れずに言えば、私の仕事の場合、生徒さん達が、私が目標を立て、計画をした通りに成長していってくれたとしても、そこに心の底からの喜びは湧き上がらないのです。
それよりも何よりも、私が無上の喜びを感じるのは、生徒さんが私自身が「思ってもみなかったような素晴らしい成長」を見せてくれる時です。
人と人とが出会い、共に学ぶ時には
「教育の奇跡」 ― 内田樹の研究室 2012年3月15日の記事より
~前略~
実際に自分が教卓のこちら側に立つことになって、私は「教育制度」を支えている「氷山の水面下の部分」には大量の人類学的な叡智が埋蔵されていることを知った。
私が知って驚倒したのは、「教師は自分が知らないことを教えることができ、自分ができないことをさせることができる」という「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。
それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。
教師であるためには一つだけ条件がある。一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。
自分は自分がよく知らないこと教える。なぜか、教えることができる。
生徒たちは教師が教えていないことを学ぶ。なぜか、学ぶことができる。
この不条理のうちに教育の卓越性は存する。
それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。
長い時間をかけて、この巧妙な制度を作り上げた先人たちの知恵に敬意を払うこと、それだけが教師の条件だと私は思う。
もし、生徒たちが学んだことは、どれも教師がすでに知っていたことの一部を移転したにすぎないと思っている教師がいたとしたら、私は「そのような人間は教卓に立つべきではない」と思うし、当人にはっきりそう告げるだろう。
その人には「教育制度に対する敬意がかけている」からである。
教育制度に敬意を持てないものは教師になるべきではない。
教育の奇跡とは、「教わるもの」が「教えるもの」を知識において技芸において凌駕することが日常的に起きるという事実のうちにある。「出力が入力を超える」という事実のうちにある。
豊かな専門知識を持ち、洗練された教育技術を駆使できるが「教育の奇跡」を信じていない教師と、知識に貧しく、教え方もたどたどしいが「教育の奇跡」を信じている教師が他の条件を同じくして教卓に立った場合、長期的には後者の方が圧倒的に高い教育的アウトカムを達成するだろう。私の経験はそう教えている。
もちろん、短期的限定的な教育課題の競争(TOEICのスコアを一学期のあいだに何ポイント上げるかとか)では、「できる教師」の方が高いパフォーマンスを発揮する。
けれども、「教室とはそこに存在しないものが生成する奇跡的な場だ」という信念を持たない教師は長期にわたって(生徒たちが卒業した後になっても)彼らの成熟を支援するというような仕事はできない。
今日の「教育危機」なるものは、世上言われるように、教師に教科についての知識が不足しているからでも、教育技術が拙劣だからでも、専門職大学院を出ていないからでもない。
そうではなくて、教師たちが教育を信じるのを止めてしまったからである。
教師が教育を信じることを止めて、いったい誰が教育を信じるのか。
教師たちが政治家やメディアや市場原理を信じる保護者たちの要請に屈して、「教育とは代価に見合う教育商品・教育サービスを提供するビジネスの一種である」という教育観を受け容れたときに、商取引のタームで教育が語られることを許したときに、教育の奇跡は息絶えるだろう。
「教卓の向こう側」には圧倒的な知的アドバンテージを有するものが存在する。
生徒たちが差し出すどのような代価も、教師からの「贈り物」の価値を相殺することはできない。
その信憑だけが私たちをドクサの檻から解放してくれる。
子供たちはまず「教卓」を介して「この世界には私の理解を超えた数理的秩序が存在する」という信憑を身体化する。
そこから科学的探求心と宗教的覚醒が始まる。
そこから人間は人間的なものに成長してゆく。
この理路をまったく理解していない人たちが教育について語る言葉が巷間にあふれているので、贅言と知りつつここに記すのである。