
荒々しくて、率直で、未完成で・・・雫さんの切りだしたばかりの原石をしっかり見させてもらいましたよ。よくがんばりましたね。あなたは素敵です。~映画「耳をすませば」より
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今から20年前、高校一年生の夏、私は初めて無断で学校をさぼりました。何で夏休みなのに、補習なんかに行かなきゃいけないの?バカじゃないの?という思いから、通学のバスには乗ったものの、降りるべきバス停では降りず、鹿児島の繁華街天文館で下車しました。
さぼったは良いものの、特にやりたいことがあったわけでもなかった私は、ふらふらと映画館に入りました。そこで見たのが、このジブリ作品「耳をすませば」でした。
当時の映画館は入れ替え制ではなかったので、一回目観て、二回目観て、なんと三回目まで居座って見続けてしまいました。他に行く場所がなかったのもありますが、何かしら、その時の自分の心を癒してくれる力が、この作品にはあったんですね。
私はこの作品に出てくる「地球屋」というアンティークショップの店主である、西司郎というおじいさんが好きです。
映画の後半、中学3年生の主人公雫が、受験勉強そっちのけで自分の尊厳を懸けて懸命に書きあげた物語を、そのおじいさんが読んで感想を伝えるシーンがあります。
何か作品を作ったことがある方なら分かると思いますが、自分の全てを込めて作った処女作を誰かに見てもらうと言うのは、大変な勇気がいるものです。自分の全てをさらけだす恥ずかしさとの闘いです。
雫も、おじいさんが作品を読んでいる間は、いたたまれずに、ベランダでひざをかかえて待たざるを得ませんでした。
そして読み終わったおじいさんは、雫にこう言うのです。
「あなたの切りだしたばかりの原石をしっかり見させてもらいました。よくがんばりましたね。あなたは素敵です」と。
雫はおじいさんの言葉を聞きながら、涙します。自分の足りなさが身に染みたこと、そして、それも含めて、おじいさんに受け止めてもらえたことが胸に迫ったのでしょう。
その後、自分への大きな「試し」を終えた雫は、自分はまだまだ足りない、もっと学ばなければ、という思いを強くして、「中学3年生」へと戻っていきます。
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私は、このおじいさんのようになりたいとずっと思ってきました。私の教室も「地球屋」を意識して作ってきたところがあります。
10代の若者たちが秘めた「原石」を、大人達は切り出すことはできません。
秘めたる原石は、本人が、恥ずかしさや不安に耐えながら、必死に切り出していくしかありません。
仮に大人達がそれを切り出してやって、磨いてやることができたとしても、その石はたいして価値のない、つまらないものになるでしょう。
なぜなら、当の本人は、決して、「自らの足りなさ」に気づくことは無く、向き合うことがないからです。
逆説的ですが、懸命に努力して、「自らの足りなさ」が肌身に染みて初めて、人は「自らを適切に認める」ことができます。
自分はまだまだ足りない、でも、今自分はここまではやることができた。
そして、道の向こうにはまだまだ広大な世界が広がっている。
そこへ、自分の足で、一歩一歩向かっていきたい。
そういう、過大でもなく過小でもない、適切な自分への評価を下すことができて初めて、その人の原石は、未来への輝きを内包することができると思うのです。
そして、周囲の人の力も借りながら、その人自身が、その石を磨いていく時に、「意志ある石」の輝きを放って行くことができると思うのです。
大人達ができるのは、若者達が、自らの原石を切り出していくための勇気をもたらすことです。
そして、ほうほうの体で切り出してきた原石を、受け止めるあげることだけです。
教育が成すべきことは、全ての若者を、ひとつの基準に基づいて等級ごとに選別し、切り揃え、同じように磨いて、世に放つことではないと、私は思っています。
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今日は、鹿児島県の公立高校入試の初日でした。私も、ある高校に、受験生を応援しに行きました。
いつも祈ることは、その子がベストを尽くせたと思えますようにということです。
ベストが尽くせたと思えたのであれば、その人の人生にとって一番良い結果が、きっともたらされることでしょう。
そして、心から言ってあげたいです。
「今日までよくがんばりましたね。あなたは素敵です」と。